うたかたの日々

育児中のパパ目線から、日々買わされるボーイズトイや教材などのレビューを書いていきます。

新美南吉のテキストから回想する、イーハトーヴォの五月から十月まで

このブログは、育児中のパパ目線から、日々買わされるボーイズトイや、教材などのレビューを書いていくために継続しています。

過日に、国語の読解問題に付き合ったときのこと。
その題材が、新美南吉の「手袋を買いに」でした。
ごく簡単に言ってしまえば、子狐が手袋を買った前後までの話なので、残念ながら子供の興味を惹きつけられるようなフックは、あらかじめ用意されていません。

図書カード:手袋を買いに

さて、いつものように音読から始めたのですが。
その直後に、新美南吉の日本語により語られる文章表現の美しさに、すぐさま惹きつけられてしまい、急遽、解説に回らざるをえない展開になってしまいました。
と同時に、別に何でもないものまでをファンタジーとしながらも的確さを損なわない、洗練された詩的描写が、宮沢賢治の筆致から受けた印象と同じであることに今更、気づかされてしまいました。
ひょっとしたら両者間に、何かしらの関係や影響があったのかもしれませんが「悩めるパパ」は文系ではありませんし、意見や感想には個人差があります。

決定的な違いとしては、新美南吉の方が、身近な情緒面に対する造詣が深く、場面ごとが丁寧に描かれ抜くのに対し、宮沢賢治は独自の物語性を持ちながら、フィクションの説得力が強く、行間を含めた文脈においても、なお美しいと思わされること。
もしも語り手の視点を、カメラワークに例えるならば。
前者が静的かつ絵画的であるのに対し、後者は動的かつ映画的なのです。

 

まずは、子狐が帽子屋を訪ねた場面から、一部抜粋すると。



子狐は教えられた通り、トントンと戸を叩きました。
「今晩は」
 すると、中では何かことこと音がしていましたがやがて、戸が一寸ほどゴロリとあいて、光の帯が道の白い雪の上に長く伸びました。
 子狐はその光がまばゆかったので、めんくらって、まちがった方の手を、――お母さまが出しちゃいけないと言ってよく聞かせた方の手をすきまからさしこんでしまいました。
「このお手々にちょうどいい手袋下さい」



まるで一枚の画のように思い浮かべられる、無駄の無い描写から、戸が隔てた内外、つまりは両者が置かれた状況の違いなどが説明されています。
なお子狐にとっては、はじめて出会い、話した人間でしたが、互いに姿までは見えていません。

次に、時系列を巻き戻し、帽子屋に至るまでの道中から、一部抜粋。



子供の狐は、町の灯ひを目あてに、雪あかりの野原をよちよちやって行きました。始めのうちは一つきりだった灯が二つになり三つになり、はては十にもふえました。狐の子供はそれを見て、灯には、星と同じように、赤いのや黄いのや青いのがあるんだなと思いました。やがて町にはいりましたが通りの家々はもうみんな戸を閉しめてしまって、高い窓から暖かそうな光が、道の雪の上に落ちているばかりでした。



遠近法から眺められる灯の数によって、子狐が歩いた道のりと時間の経過が、丁寧に説明されています。
ましてや、なおさら無駄がありません。
また光については、帽子屋を訪ねた際の伏線になっています。

更に、冒頭近くの場面に戻り、一部抜粋。



「母ちゃん、眼に何か刺さった、ぬいて頂戴ちょうだい早く早く」と言いました。
 母さん狐がびっくりして、あわてふためきながら、眼を抑えている子供の手を恐る恐るとりのけて見ましたが、何も刺さってはいませんでした。母さん狐は洞穴の入口から外へ出て始めてわけが解わかりました。昨夜のうちに、真白な雪がどっさり降ったのです。その雪の上からお陽ひさまがキラキラと照てらしていたので、雪は眩まぶしいほど反射していたのです。雪を知らなかった子供の狐は、あまり強い反射をうけたので、眼に何か刺さったと思ったのでした。



はじめて見る雪景色の中で怯えることしかできない子狐が、光に対し過敏に反応してしまうことが明確に、誇張して語られていました。

やがて夜になってから見つけた光に関しての、一部抜粋。



暗い暗い夜が風呂敷ふろしきのような影をひろげて野原や森を包みにやって来ましたが、雪はあまり白いので、包んでも包んでも白く浮びあがっていました。
 親子の銀狐は洞穴から出ました。子供の方はお母さんのお腹なかの下へはいりこんで、そこからまんまるな眼をぱちぱちさせながら、あっちやこっちを見ながら歩いて行きました。
 やがて、行手ゆくてにぽっつりあかりが一つ見え始めました。それを子供の狐が見つけて、
「母ちゃん、お星さまは、あんな低いところにも落ちてるのねえ」とききました。
「あれはお星さまじゃないのよ」と言って、その時母さん狐の足はすくんでしまいました。
「あれは町の灯ひなんだよ」



時系列に伴い、光に関する描写が重ね重ね、しかも印象的に刷り込まれてきました。
遠目に町の灯が「お星さま」として眺められたのであれば、とうとう帽子屋の戸が一寸ほど開いたときの光の帯は、子狐にしてみれば、さぞや流星の如く迫られたのでしょう。

と、このような調子で解説していたところ。
よほど退屈だったのか、子が欠伸をし始めたので、PCを起動するように言いました。
子のPCは、パパからお下がりのiMacです。
そして、フォントの書体見本を見せました。
日本語の例文は、宮沢賢治の「ポラーノの広場」の一節から、引用されています。



あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波。



まるで映画のオープニングに相応しい、音楽すら聞こえてきそうなパノラマの光景!
すると、ようやく子が目を開かせたものの、これからイーハトーヴォの五月から十月までを解説するには、もはや限界のようでした;
なので宮沢賢治に関しては、ここでは触れられません。
何はともあれ、両者の作品が、褪せることなく現代にまで伝わり、ましてや教材としても再会できる機会を嬉しく思いました。

ただ、ごく個人的には何でも良いのです、退屈さえ紛らわせられるのであれば。